コレクション

所蔵作品ののご案内
「夭折・未完の画家」が遺した絵画コレクションを中心に公開(異色画家や数少ない作品等の気になる画家作品も展示)しています。
何分、サラリーマンコレクションであるがゆえ、小品である点をお許しいただき、図書等もご覧いただきながらゆっくりとご鑑賞下さい。
尚、館長は話好きですが、皆さまのお時間を大切に考え、邪魔しないよう大人しくしております。もし何かございましたら遠慮なく声をお掛けください。

水彩・パステル・素描

名 前 生没年
(没年齢)
 人、画業、生涯
難波田史男 1941〜1974 (32歳) 著名な抽象画家 難波田龍起の二男として生まれ、早稲田大学文学部美術科を卒業。繊細な描線で幻想的な心象風景を描き将来を嘱望されました。ところが、兄との九州旅行の帰り、瀬戸内海を航行中のフェリーより転落し、32歳の若さで生涯を閉じました。死後もなおその才能が愛され、夭折を惜しまれた回顧展が各地で開催されています。
四谷十三雄 1938〜1963 (25歳) 京浜港工業地帯で工員として働きながら絵を描いていましたが、初個展を目前に刷り上がったばかりの案内状を抱えたまま横断歩道で交通事故に遭い25歳で夭折。創作期間は僅か5年、初個展がそのまま遺作展となった伝説の画家です。遺作展で作品を目にした※洲之内徹氏が感動し「私はどれでもいいから彼の絵を一枚欲しいと思った」と語っています。   
※ 銀座で現代画廊を経営し、美術エッセイストで小説家。芸術新潮に名物エッセイ「気まぐれ美術館」を1974年から急逝する87年まで長期連載。
金山康喜 1926〜1959 (33歳) 東京大学経済学部在学中に画塾に通い 、戦後まもなくパリに渡りソルボンヌ大学法学部へ留学。ブルーの透明感ある静物画等で独自の境地を開き、藤田嗣治に才能を高く評価されながら、病に倒れ僅か33歳で亡くなった悲運の天才画家です。 夭折が惜しまれますが、彼の芸術は現在も高く評価されています。
野田英夫 1908~1939 (30歳) カリフォルニアで日系移民の子として生まれ、3歳から熊本で過ごし、18歳で再びアメリカに戻って美術を学びました。その後「アメリカン・シーン」の画家として、暖かな眼差しで自分の身辺や日常生活、街の人々を描いた作品で評価を高めました。 1937年、家族と日本に帰国しこれからという矢先、脳腫瘍により僅か30歳で亡くなりました。
篠原道生 1960〜1992 (32歳) 多摩美大油絵科、大学院を卒業後、4ヶ月間イタリアに滞在。帰国後、美術団体に帰属する事なく、赤や緑の原色を使った絵を描き、詩を綴り「何故生きるのか」を問い続けました。ところが、平成4年12月10日の朝、「私は絵を描いてしか/身をたてられません/私は絵を描いてしか/身をよこたえられません」と遺し、32歳で自ら命を絶ってしまいます。
前田寛治 1896〜1930 (33歳) 大原コレクションに感銘し渡欧。自ら子豚にたとえて「パリの豚児」と名付けたように、佐伯祐三ら巴里に滞在した多くの青年画家たちと交遊し、巴里の良き時代の空気を呼吸しました。 帰国後、巴里時代の画友と「1930年協会」を結成。荒々しい野獣派スタイルの写実画「前寛ばり」と呼ばれました。帝展審査員に選ばれるも病に倒れ、33歳の若さで亡くなりました。
佐分 眞 1898〜1936 (37歳) 帝展に滞欧作「貧しきキャフェーの一隅」を出品し特選を受賞し名を高め、さらに「画室」「室内」が連続して特選を受賞します。名家出身で将来を嘱望された新進画家でありましたが次第に孤立し、東京の自宅アトリエで、突然、3通の遺書を遺し自ら若い命を閉じました。没後、遺族の資金によって新進洋画家を奨励のための佐分賞が設立されました。
柳 敬助 1881~1923 (42歳) 留学先のニューヨークで高村光太郎、萩原守衛と交流を深め、帰国後も新宿中村屋を舞台とした「中村屋サロン」と呼ばれる集まりへと続きます。ところが、大正12年に42歳で夭折。その年日本橋三越での遺作展初日に関東大震災が起こり、展示作品全てが消失してしまい、現存する作品は信州の禄山美術館の所蔵作品のほか、極めて少ないようです。
川上涼花 1887~1921 (33歳) 大正元年、岸田劉生ら若き画家が集ったヒュウザン会に参加。展覧会は3回で終えますが、涼花の個性的な作品が最も注目されたと言われています。油彩のほか木炭素描や晩年には水墨にて日本画を制作しましたが、34歳の若さで亡くなったのと、戦争で多くの作品が焼失したため、残された作品は極めて少ないと思われます。
島崎鶏二 1907~1944 (37歳) 島崎藤村の二男に生まれ、画学校で藤島武ニに学んだのち、3年間フランスに留学。帰国後は二科会を中心に詩的で哀愁を帯びた作品を出品し、将来を嘱望されました。また父 藤村を良く補佐した事でも知られています。 しかし、1943年に太平洋戦争に召集され、翌年、従軍先のボルネオ島にて飛行機事故により37年の短い生涯を閉じました。
佐藤清三郎 1911~1945 (33歳) 新潟の銀行で下積みの仕事をしながら、生涯ひとりで絵を描いていた無名の画家です。支店長代理にまでなりましたが、終戦の年に召集され、4ヵ月後に横須賀の病院で33歳の若さで戦病死してしまいます。しかし、洲之内徹氏が芸術新潮に連載した『気まぐれ美術館』 の連載第1回に登場したのは、この佐藤清三郎が描いた『靴』と題したコンテ画でした。
長谷川利行 1891〜1940 (49歳) 独学で思い立ったら絵を描き、生涯アトリエを持ちませんでしたが、二科展で樗牛賞を受賞するなど高い評価を得ます。しかし生活はしだいに荒れ果て木賃宿等を転々とし、安酒の飲み過ぎで胃潰瘍が悪化し徐々に体が弱った上、泥酔してタクシーに跳ねられ重傷を負ったりします。ついには路上に倒れ収容されますが治療を拒否し亡くなってしまいます。
野口謙蔵 1903〜1944 (43歳) 東近江市(現在)で造り酒屋を営む裕福な家庭に生まれて美術品に囲まれて育ちました。東京美術学校卒業後は帰郷して画家となり近江に腰を据えて田園風景等を描きました。日本的土着のフォーヴィズムと言われる独自の洋画を高く評価され、帝展入選、特選を受賞し、新文展の審査委員として運営にも関わりましたが、43歳で病気のため亡くなりました。
山中春雄 1919〜1962 (43歳) 19歳で二科展に入選し新聞紙上で天才画家と評され、モノクロの不思議な世界を描きました。昭和30年には、友人らの協力で渡仏し帰国後の個展でも注目を浴び評価を高めました。その一方で、酒好きで胃を病み入院。夫人との別居、生活苦・健康不安に陥ったものの何とか回復しますが、同棲していたパトロンの男に刺され非業の死を遂げました。
古茂田守介 1918〜1960 (42歳) 中央大法科を中退後、大蔵省に勤務しつつ絵画を描いていましたが、戦後退官し画業に専念します。人物、静物等を独自の堅牢で存在感のある具象表現で評価を得るようになりますが、持病の喘息発作で42歳の若さで亡くなりました。 死後、アトリエが燃え、多くの大作が焼失したとされていましたが、修復され目黒区美術館で公開されました。
陽 咸二 1898〜1935 (37歳) 近代彫刻の鬼才と呼ばれ、大正時代に官展で頭角を現しますが、昭和に入り彫塑団体の「構造社」に所属して、官展の枠からはみ出したユニークな作風を確立しました。都市の近代化の中で、古代彫刻や建築と近代造形の融合した美しい作品を残しています。しかしながら、奥さんと二人の子供を残し病で永眠。37歳の短い生涯でした。
 森田恒友  1881〜1933 (53歳)  熊谷市に生まれ、小山正太郎の不同舎で学んだ後、東京美術学校に入学。第一回文展に入選し、同じ年に石井柏亭や山本鼎と「方寸」を創刊し挿絵や芸術論を発表。また、北原白秋らとともに「パンの会」を起こしました。渡欧、院展洋画部、二科会を経て春陽会の創立に参加後、帝国美術学校開校時に洋画家主任教授に就任しますが程なく亡くなります。
 中川八郎  1877~1922
(44歳)
 明治32年、渡欧資金を得るため、吉田博とともに水彩画を携えて渡米し2人展を開催します。絵は飛ぶように売れ、その資金でヨーロッパを巡遊しました。帰国後は、吉田とともに太平洋画会結成に参加。明治35年〜39年欧米を再訪。帰国後、文展・帝展で活躍します。3度目の渡欧の際ナポリで発病し、帰国後間もなく神戸にて44歳で亡くなりました。
 安藤仲太郎 1861~1912 (51歳)    伯父高橋由一の画塾天絵楼で洋画を学びました。明治22年のパリ万国博覧会に続き、26年のシカゴ万国博覧会に出品。明治29年には黒田清輝らと白馬会を結成し創立に参加するなど明治時代の洋画開拓者の一人でありました。明治44年、朝鮮旅行中に李王家に肖像画を委託され、翌年、肖像画制作中に亡くなっています。
 坂口右左視 1895~1937 (42歳)    鹿子木孟郎に師事したのち日本美術院研究所で学びます。大正12年の春陽会第1回展と第3回展で春陽会賞を受賞し無鑑査に推挙されました。風景画を中心に、簡潔で要約された筆触の異色の画風を示し、非凡な才能をもっていましたが42歳で死去しました。今日まで目立った再評価の動きは無く不遇の画業であると言えます。
 中西利雄 1900〜1948 (47歳)    都会的センス溢れる作風で生涯を通して水彩画の表現の向上に取組みました。昭和3年に渡仏しサロン・ドートンヌに入選。帰国後も帝展第二部会展で代表作となる「婦人帽子店」が特選を受賞。その後新制作協会を小磯良平、猪熊弦一郎らと結成します。昭和23年、大仏次郎の「帰郷」の挿絵を毎日新聞に連載中に病で中絶。47歳の若さで生涯を閉じました。
高見修司  1950〜1989 (38歳)    父の死後、中央大学を中退。入った画材屋で絵具とキャンバスを衝動買いし、絵を描き始めます。南洋の島で永住を図ったものの病気のため帰国。結婚後、妻の実家に近い新潟に住み、臨時雇いで職を転々としながら絵を描き、個展も開いています。素朴でユーモアある独創的な世界を創り上げつつありましたが、病のため僅か38歳で亡くなりました。
中原 實 1893〜1990 (97歳) 日本歯科大学の創設者の家庭に生まれ、同校卒業後にハーバード大歯科に編入学。卒業後はニューヨークに勤務したのち渡仏しフランス陸軍歯科医となります。その傍ら当時の美術運動の未来派、ダダ、超現実主義に触発され、帰国後は母校教授を務める一方、画家としてもアクション運動や三科運動等も参加するなど戦前の前衛絵画運動で逸することができない存在です。戦後は日本歯科大学学長、日本歯科医師会会長を努めるとともに、二科会の復興にも尽力しました。 
木下秀一郎 1896〜1991 (95歳) 木下も医大出身で、中原實とともに戦前の前衛絵画運動で大きな足跡を残しました。特に大正9年に設立されたわが国最初の前衛美術団体である未来派美術協会で中心となり活躍。その後三科造形美術協会へと発展しますが、第2回展で旧マヴォ一党と紛争が起こり分裂解散してしまい。それ以降は美術運動を離れ医業に専念したため作品は殆ど見ません。
磯辺行久 1936〜 昭和37年の読売アンデバンダン展に、ワッペン状のレリーフ作品を出品し注目を浴び、1950年代〜60年代(昭和25年〜35年代)にかけて日本美術に貢献しました。昭和41年から8年に渡り渡米し、ペンシルヴェニア大学院で環境計画を学んだ後、昭和45年以降は、環境アセスメントを研究。その後、パりでの制作活動を経て、大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレでは川をテーマとしたプロジェクトに取り組みました。
堀内康司 (78歳) 草間弥生らと交友してグループ展を開き、国画会新人賞を二年連続で受賞。当時無名の池田満寿夫の才能を見いだし、アイオー、真鍋博とグループ「実在者」を結成し、強い線描の独特の作品を描き注目されますが、30歳で突然創作活動を絶ってしまいます。創作期間も短く忘れ去られたまま、平成23年に78歳でひっそりと亡くなります。ところが死後、画集「堀内康司の遺したもの」が出版されたことを機に、一気に再評価が進み、各地の美術館で展覧会が開催されています。
伊藤久三郎 1906〜1977
(71歳)
京都市下京区に生まれ、京都市立絵画専門学校を卒業。昭和13年に二科会前衛グループによる九室会に参加した後、同16年に二科会員となります。戦後は京都に戻り行動美術協会の結成に加わるとともに、成安女子短大教授として後進の指導にあたりました。今日では再評価が進み、その抒情的なシュールレアリズムの作品群は高い評価を得ています。
阿部合成 1910〜1972 (61歳) 青森中学で太宰治と同級生で代表作「人間失格」のモデル。100号の大作で出征兵士を見送る人びとを描いた作品を1938年の二科展に出品しますが、高級官僚から「退廃不快の印象を与え日本人とは思えない」と取り締まりを欲求され、以降、非国民的「反戦画家」のレッテルを貼られ、その後は一切の公募展に出品せずアウトサイダーとして生涯を終えます。
小泉 清 1900〜1962 (61歳) 小泉八雲の三男として東京に生まれ、5歳の時に父が死去。東京美術学校に入学しますが2年で中退し、画学生時代に知り合った絵のモデル静子と駆落ち結婚。洋画家デビューは46歳と遅かったですが、フォーヴィズムを追求した独自のスタイルを確立します。ところが、支えの夫人が突然病で亡くなり、後を追うようにアトリエでガス自殺をとげてしまいます。
小山田二郎 1914〜1991 (77歳) 心の不安や孤独を奇妙にゆがんだ肉体や亡霊のような生き物を通して表現し、その作品群は今なお異彩を放っています。波乱万丈な生涯は、結婚し一女をもうけますが、57歳の時に「ラーメンを食べに行く」と言ったまま家族を残し愛人の元へ失踪。以後の活動は特定の画廊で行い、世間との関わりが薄くなるとともに、注目されることも少なくなっていきます。
神谷信子 1914〜86 (72歳) 香川県善通寺に生まれ、一家で東京に移り、高等女学校で国文を教えながら、絵画研究所で指導を受け画家の道に入ります。浅草の神谷バー「神谷酒造」の4男と結婚しますが翌年に夫が召集され戦病死。その後、画家広幡憲に心酔し同棲しますが、広幡も1年半後37歳で立川駅で事故死していまいます。晩年までニューヨークで絵を描いていましたが、病で帰国、日本で亡くなりました。神谷のように戦前の女流画家の多くは正当な評価がなされず忘れ去られています。

油彩

名 前 生没年
(没年齢)
 人、画業、生涯
岡本帰一 1888〜1930 (42歳) 黒田清輝の主宰する白馬会洋画研究所に入学しますが、岸田劉生らと「フュウザン会展」を開催したため、黒田の逆燐に触れ破門されます。洋画家を諦め、童話雑誌の挿絵で人気を得てスターとして活躍しますが42歳で病死しました。売れっ子となった後も、アトリエには「いつかまた油絵が描きたい」とイーゼルとキャンパスが置かれていたそうです。
吉田 卓 1897〜1929 (32歳) 大正11年の二科展入賞に続いて、15年に「羽扇を持てる裸婦」が佐伯祐三、林重義らとともに二科賞を受賞します。 渡欧を計画し、昭和4年に後援会結成のために関西を旅行中に病に倒れ、32歳で急死しました。芸術性が再評価されていますが、約10年の画家活動であったのと、戦災による焼失、散逸のため、遺された作品は極めて少ないと思われます。
長谷川三郎 1906〜57 (50歳) 日本の抽象絵画の先駆者。昭和4年に東大美学美術史科を卒業し、渡米・渡欧して制作活動を行い、ピカソ、モンドリアン等の抽象絵画に影響を受けました。昭和9年に「新時代洋画展」同12年に「自由美術家協会」の創立に参加する一方、評論・思想家としても活動。 国際的にも活躍しましたが、米サンフランシスコで病気のため客死しました。
津田正周 1907〜52 (45歳) 昭和4年にパリ留学し物悲しい巴里の風景を遺しましたが、45歳でハルピンで心臓麻痺で亡くなりました。戦時中に保管されていた建物が焼失したため遺された作品は極めて少なく、忘れられつつあ画家である一方、洲之内徹氏薯「絵の中の散歩」で画家にまつわるエピソードが紹介されていることから、オールドファン垂涎の画家作品となっています。
佐藤 渓 1918〜60 (42歳) 自由を愛し全国を旅しながら絵を描き続けた放浪の詩人画家。旅の途中、沼津で倒れ父母の居る湯布院の実家で亡くなりました。無名のままの生涯でしたが、洲之内徹氏の『気まぐれ美術館』での紹介、東京ステーションギャラリーでの佐藤渓展の開催、NHK日曜美術館『天のままに行く〜放浪の画家・佐藤渓の世界』の放映により広く知られるようになりました。
菅野圭介 1909〜63 (53歳) 京都大学文学部を中退後、渡仏しグルノーブルでジュール・フランドンに学びます。独特の色彩感覚、単純化された構図、深い詩情で脚光を浴びる一方、三岸節子との別居結婚でも世間を驚かせました。病気のため道半ばの53歳で亡くなりましたが、彗星のごとく画壇に現れ人々を魅了した作品は、半世紀以上を経た現在、再び評価を高めています。
荒井龍男 1904〜55 (50歳) 昭和8年に渡仏しサロンドートンヌ等に出品。自由美術家協会、モダンアート協会の創立に参加しています。昭和27年から米、仏、伯で個展を開催し、サンパウロ近代美術館に作品が収蔵されるなど、前衛絵画で国際的に活躍しました。 帰国後もブリジストン美術館で個展を開催、長女も誕生。その後の活躍が期待されるましたが病気のため急死しました。
清水登之 1887~1945 (58歳) 20歳で渡米し過酷な労働の末、シアトルでオランダ人画家に師事、ニューヨークに移り国吉康雄らとアメリカンシーンで活躍。労働や生活を哀感、ユーモアをもった温かい目で描き、米美術界で高い評価を得ました。帰国後も二科展等で活躍しますが、太平洋戦争下、学徒出陣した最愛のひとり息子が戦死。後を追うように敗戦間もなく亡くなりました。
青山熊治 1886~1932 (46歳) 白馬会白馬賞、文展最高賞を得るなど画壇で活躍した後、シベリア鉄道でやっとの思いで第一次対戦中の巴里に到着しましたが、金は尽き苦難を重ねます。日本を離れ8年、友人の援助で帰国しますが、長い放浪中に忘れ去られ貧しい生活を続けますが、大作の受賞により中央画壇に復活し輝きを取り戻すも束の間、帰省中に急病に倒れ46歳で亡くなります。
片多徳郎 1889~1934 (44歳) 文展特選、帝展無鑑査…となり、日本的な洋画を表現し若手の注目株として活躍しました。その一方で、酒で自分をギリギリまで追い詰めて絵を描く自滅型画業で体を害し、入退院を繰り返します。やがて幻覚症状が出るまで悪化。 昭和9年、体の事を苦に失踪。名古屋のお寺の墓場で自殺しているのが見つかりました。44歳でした。
今西中通 1908~47 (38歳) 当時もっとも前衛画家が集まった独立美術協会展を主な発表の場とし、短い画業の間にフォーヴィズム、シュールレアリズム、キュビズム、写実主義傾向へと作風は変化します。昭和15年頃から療養、昭和20年に福岡に移り絵画研究所を設立しますが、昭和22年に39歳で病気のため亡くなりました。死後、異色画家、幻の近代画家として評価されました。
青柳喜兵衛 1904〜38 (34歳) 無名の画家でしたが、TV東京の「美の巨人たち」で3歳で病死した次男を描いた「天翔ける神々」が放映され知られるようになりました。「天翔ける神々」には、この次男がいつも遊んでいた張り子のトラに乗って自由に天を駆け巡る姿が鎮魂の思いで描かれています。 それから2年後、喜兵衛も息子の後を追うように34歳の若さで生涯を終えています。
畠山三朗 1903~33 (31歳) 戦前のエコール・ド・パリやアメリカン・シーンの時代に、南の島に憧れた多くの日本人画家が ミクロネシアの島々(南洋群島)を訪れています。陸前高田市出身の畠山三朗も、大正14年に画家を志して上京し岡田三郎助の門下生となりましたが、新境地を目指しパラオを訪れました。帰国後、東京に念願のアトリエを建てましたが程なく31歳で亡くなりました。
松下春雄 1903〜33 (30歳) 貧しい家庭に育ち、小学校を卒業して銀行に給仕として勤務します。大正10年に上京して絵の勉強をしますが関東大震災に遭い帰郷。美術研究グループ「サンシオン」を結成し活動しました。再び上京して帝展での入選、特選を受賞するなど中央画壇で活躍し将来を嘱望されますが、白血病のため30歳で死去。翌年の帝展では遺作が特選を受賞しました。
上山二郎 1886〜1945 (50歳) パリで藤田嗣治のもとで制作。 帰国後、長谷川三郎や吉原治良の若き日に大きな影響を与えますが、疎開先の八王子で空襲の影響で死去。画業が短かくパリ時代の作品も焼失したため現存作品が少なく、美術史から忘れ去られます。近年、「知られざる画家 上山二郎とその周辺」と題した展覧会により「知られざる画家」の代名詞として知られるようになりました。
大橋了介 1895〜1943 (47歳) パリに渡り、佐伯祐三、荻須高徳、山口長男らと写生旅行など交友。作風は佐伯の影響を強く受けています。留学中に同じ留学生のエレナ夫人と結婚し帰国後は芦屋に住み、夫人の支えのもと画業に専念しますが、47歳で亡くなります。その後、エレナ夫人は、松坂屋の専属デザイナー等として活躍。また「大橋了介・エレナ展」も開催されました。
木下雅子 1905〜36 (32歳) 貴族院議員の三女として生まれ、女子学習院卒業後に二科会展に出品。 夫で画家の木下義謙とともに渡仏し二人展の開催、サロンドートンヌ等の公募展に出品します。帰国後は二科展への裸婦の大作出品、婦人美術協会の創立にも参加。エッセイ執筆、洋服デザインに携わり華やかな活躍が期待されましたが、32歳の若さで病死しました。
居串佳一 1911〜55 (44歳) オホーツク海に面した網走に生まれ、北海道の風物やアイヌをテーマとした作品を描いた異色の画家。独学で絵を始め独立展に入選。昭和9年に画業に専念するため上京し、入選、入賞を重ね会員に上り詰めます。その後、従軍を経て北海道に疎開しますが、再び東京で活動。昭和30年、北海道での独立展開催に向け札幌滞在中に旅館で急病死しました。
林 重義 1896〜1944 (47歳) パリの街並みやルオーの影響を受けた旅芸人や道化師などの人物作品を制作。特に舞台裏の哀愁漂う道化師の姿に共感した作品を制作しました。滞欧作を二科会に出品。その後脱退して独立美術協会を創設しますが、超現実派が流行するのに対し、純写実主義を主張し脱退。私生活での大酒豪・アルコール中毒の末に病気の為47歳で亡くなりました。
熊岡美彦 1889〜1944 (55歳) 東京美術学校で和田英作、藤島武二に師事。卒業後、文展入選、帝展特選に続き、第6回帝展に「緑衣」を出して帝国美術院賞を受け、翌年から帝展委員となるなど官展で活躍しました。欧洲留学からの帰国後には斎藤与里とともに東光会を結成。また、熊岡絵画研究所を設立して後進の育成に尽力しますが、急性喘息のため自宅で亡くなりました。
加藤静児 1887〜1942 (55歳) 東京美術学校洋画科在学中から文展に出品。大正9年に渡欧。帰国後には帝展無鑑査に推されたほか、文展以外に光風会にも出品。また、愛知社同人として郷土芸術振興にも尽力しますが、病気のため渋谷区の自宅で亡くなりました。加藤を始め、官展系(文展、帝展など)の画家の滞欧作にも魅力ある作品が多くあります。
原 勝四郎 1886〜64 (78歳) 田辺市に生まれ、東京美術学校を中退し、フランスを目指しますが資金不足と、第一次世界大戦最中であったことで、途中、船員に雇われやっとのことでフランスに入国します。しかし大戦後の物価高と就職難で生活に困窮し、仏・伊・アルジェリアを様々な仕事をしながら放浪したのち、画友の支援で帰国しました。長い彷徨の果てに故郷に戻ってからは、中央画壇と関わらず終生、孤高を貫きましたが、フォーヴ的な荒々しい筆触の作品は、今も見る人の心を捉えて離しません。

版画

名 前 生没年
(没年齢)
人、画業、生涯 
田中恭吉 1892~1915 (23歳) 大正3年、東京美術学校の3人の学生、田中恭吉、恩地孝四郎、藤森静雄により、近代美術史上最も重要な木版画集となる「月映」が刊行されました。しかし既に恭吉は病に蝕まれ命を削っての制作でした。故郷の和歌山に戻り、療養しながら制作を続けますが、やがて体力が衰え最後の力を振り絞ってペン画や詩作を行いましたが23歳で亡くなります。
加藤太郎 1915〜1945 (29歳) 東京美術学校で学び、戦中の美術空白期に、動植物や身近な物をテーマに、シュールレアリスム風で想像力ある造形の木版画を制作していました。しかし、軍隊に召集され、昭和19年に病気で除隊。翌年29歳でその生涯を終えてしまいます。銃を描いた作品が、洲之内徹の著書「帰りたい風景」の表紙絵になっています。
瑛  九 1911〜1960 (48歳) 本名は杉田秀夫。「フォト・デッサン」を瑛九の名で発表して注目を集め、油彩、水彩、ガラス絵、コラージュ、銅版画、石版画等を印象主義、シュルレアリスム、キュビスム、抽象...と多彩な表現で、戦前の前衛美術運動に大きな足跡を残しました。病気入院中の昭和35年2月23日、点描画大作9点で個展を開きますが、3月8日の早朝48歳で急逝します。
谷中安規 1897〜1946 (49歳) 奈良県桜井市に生まれ18歳で上京。永瀬義郎の著書「版画を作る人へ」に出会い、独学で版画制作を行いました。風船のように気ままな放浪生活を続けながら、奇想天外、夢と現実が織りなす独特の世界を木版画で表現し、「白と黒」「版芸術」といった版画誌に発表。創作版画の新星として棟方志功と並び称されます。ところが、戦中の貧窮の末、戦後の焼け跡の掘立小屋で次なる制作への意欲をたぎらせますが、栄養失調のため49歳の短い生涯を閉じてしまいます。
大泉茂基 1913〜1960 (46歳) 版画家で詩人の大泉茂基は、宮城県柴田町の富豪の家に生まれ、父親が敬虔なクリチャンであったためその影響を受けた作品を多く創作しています。東北学院高等部文科を退学し、版画家を目指します。昭和24年に我が子のために制作した版画詩集「けやき」を出版。26年にはTVの音楽番組で朗読される詩の原稿を担当。 ところが、昭和30年に胃癌を発病した後は生計のための仕事はせず、作家活動に没頭し32年には初個展を開催。その後2年間は最も充実した活動を展開し、抽象版画に新境地を開きつつありましたが病が再発し、翌年に亡くなっています。46歳の生涯でした。